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2023年12月

「初芝」の夢と「東芝」の現実・・・その五(終)

 米国の制裁などでどん底に陥った東芝はようやく回復してきたところ、脆弱な財務基盤のまま、2006年に同じ原子炉メーカーの大手のアメリカのウエスチングハウス(Westinghouse,略称WH)を評価額の三倍の6216億円に吊り上げられた金額で、77%の株を入手しました。欧米の電力自由化を契機に原発事業の海外進出を目論んでいました。

 2年後の2008年、米国発の金融危機を世界の経済に大きな打撃を与えました。もっと原発事業に決定的なパンチを食らわせたのが2011年の東北地震でした。地震後、福島の原子炉が爆発し、核漏れ事故が発生しました。世界中で脱原発の機運が高まって、海外進出を考えた東芝も原発計画を放置せざるを得ませんでした。

 2015年に財務困難に陥った東芝が粉飾決算を摘発されました。更に2020年のコロナパンディミックが東芝を窮地にお追い込まれました。

 ついに一週間前の12月20日に東芝は上場廃止され、東証株式市場から姿を消しました。

 東芝が再生への”茨の道”がつつきますが、果たして返り咲きができるのでしょうか。

 

 

株式会社中和 ラッキー プリント 社員一同

「初芝」の夢と「東芝」の現実・・・その四

 アメリカ合衆国の安全を脅かしたとして、通商法301条(貿易相手国の不公正な取引に対して協議、問題が解決しない場合は制裁)の発動をほのめかしました。米国が「日本メーカーの不当廉売によって、急速的にシエアを拡大しているのに自国の市場は閉鎖的である」と出張し、日本の市場開放及び半導体メーカーの特許開放を迫りました。尋常でない米政府の圧力を感じ、時の日本政府がやむを得ず米国と「日米半導体協定」を結びました。

 それにも関わらず、1987年4月にダンピング(不当廉売)が続いていることを理由に、日本に制裁を行いました。日本製の半導体を含んで、パソコン、カラーテレビなどの電気製品に対して100%の関税率を一方的に課すことになり、総額3億ドルの関税を引き上げました。

                                                      

 1987年6月30日に米国連邦議会堂前でアメリカ議員らが交互にハンマーで東芝製ラジカセを叩いている写真は象徴されるように半導体シエア2位の東芝に対し、「東芝制裁法案」を議会通過し、数年間の東芝製品の米国輸入を禁じました。余談ですが、30年後の2019年、アメリカは再びこのハンマーを高く挙げ、降ろしている先に今度は中国のファーウェイ(華為技術有限会社)という通信機器・インフラを開発製造メーカーがあります。貿易不均衡の是正や国家安全のためと理由を付けていますが、出た杭を打つという構図は30年前と変わりません。

 対日制裁発動後、69歳の中曽根総理大臣は日米の緊張を緩和するため、米国に赴き謝らなければなりませんでした。後に東芝の工作機械事業部の部長らを日本警察に逮捕され、東芝の会長、社長も辞職に追い込まれました。調査という名目で、多くの内部技術資料も米国に渡ったと伝えられています。

 ノルウェーの調査により、1980年代にノルウェー、フランス、イタリアも同様な先端工作機械をソ連に販売しましたが、米国に猛烈な追究されたのは東芝だけでした。恐らく、80年代の日本は半導体や電気製品のほか、車のシェアも伸びていて、対米黒字がどんどん膨らんいるからのが大きな理由ではないでしょうか。

 

 

株式会社中和 ラッキー プリント 社員一同

 

 

「初芝」の夢と「東芝」の現実・・・その三

  2日前にアルゼンチンの新大統領は自国通貨のペソが米ドルに対し、50%を切り下げと宣言しました。ドルベースで単純計算すると、アルゼンチンの通貨の価値は50%低下することになり、購買力も半減しました。それと対照的にプラザ合意後の円の価値が一気に高まりました。宝くじに当たったように持ち金の購買力が大幅に伸びましたので、多くの富裕国民や企業は米国の高級住宅や高級ホテル、ゴルフ場を買い占めました。1989年に三菱地所があのマンハッタンの5番街に位置するロックフェラーセンターを買収したのは、「ジャパンマネー」が海外資産を買いあさりの象徴とも言えます。

 しかし、「合意」とは言え、米国が自らの利益のため、意図的な為替レート操作によって急進的な通貨変動は80年後半の日本繁栄を齎しましたが、あくまでも通貨高騰による株式や不動産バブルの虚像に過ぎなかったことは90年代に入って分かりました。

 振り返れば1985年の「プラザ合意」は日本経済が成長から停滞へと大きな転換を迎えた年だと思います。東芝にとっても1985年は盛衰興亡の分水嶺と言えます。

 東西冷戦の時代に西側が共産圏の国々に対して、軍事技術と戦略物質の輸出を規制するため、COCOM(ココム)という「多国間輸出統制調整委員会」が設置し、本部はパリに置かれ、日本もそのメンバーです。

 しかし東芝は先端な工作機械の輸出禁止を知りながら、伊藤忠商事などを経由し、2軸制御の大型旋盤と虚偽な許可申請を通産省に出しました。実際に9軸制御可能な高性能モデルの本体8台をソビエト連邦に輸出しました。よってソビエトの原子力潜水艦の製造技術及び静粛性を大幅に向上し、アメリカ海軍が対ソ連原潜の探索優位性を失いました。1982~1984年にかけて、35億円の高値を付けて、ノルウェー経由での輸出でした。後に内部告発のため、発覚されました。米国が日系企業叩きに絶好の口実を与えました。

 

 

株式会社中和 ラッキー プリント 社員一同

「初芝」の夢と「東芝」の現実・・・その二

 では、一国の代表的な大企業の衰退は時代の流れや経営方針の判断ミスなどいろいろな要因があります。しかし、「ローマは一日にして成らず」、その結果を招いた経過を検証することで、いくら小さいな企業でも戒めとして、意義のあることだとは思います。

 20世紀の80年代、日本の半導体技術と性能が飛躍的な進歩を成し遂げ、本場のアメリカを超え、ICチップの最大供給先になりました。日本企業の半導体チップは欧米製の同類半導体の製品と比べれば、品質は全く劣らず、価格は常に10%安く設定していたため、欧米メーカーがどうしても日系企業との競争に勝てませんでした。その代表の日系企業はまさに「東芝」と「日立」でした。よってアメリカの対日貿易赤字が膨らみに膨らんで、米国内に「安くて品質が良い」と日系電機製品への賛美をしながら、一方「狼が来た」とアメリカ産業界が日本メーカーへの敵視も齎しました。

 当時のアメリカの起業家が電気半導体分野で日系企業と競争し、日本市場、若しくは日系企業の目的市場に進出しようとすると、投資ファンドからの融資は不可能と言われて、日系企業に勝つというのは無謀だからです。

 1983年、アメリカ商務部の調査報告では、米国は飛行機製造、宇宙航空開発の分野を除いて、半導体技術、光ファイバー、電気制御機械技術等の分野において日本に全面的に遅れたと指摘しました。1985年に世界の半導体製造メーカーのトップ10に半数は日本企業となっていました。

 その後、アメリカがイギリス、フランス、ドイツと日本の代表をニューヨークのプラザホテルに招集し、現代歴史の本にも出てくる「プラザ合意」を結びました。イギリスポンド、フランスフラン、ドイツマルク、日本円などの世界主要通貨に対して、大幅なドル安を容認しました。米国の製品輸出の促進と貿易赤字の解消が目的でした。

 

 

株式会社中和 ラッキー プリント 社員一同

「初芝」の夢と「東芝」の現実・・・その一

 76歳になった「島耕作」がついに副知事に就任したという「ニュース」を見ました。佐賀県の副知事らしいですが、もちろん、現実社会のリアルな話ではなく、弘兼兼史さんが描いて、講談社が出版しているマンガシリーズ「島耕作」の中の出来事でした。

 大企業で働く男たちが描かれている物語で、主人公の課長「島耕作」も企業と共に日本の高度成長期に合わせて出世していきます。オフィスラブから、社内派閥抗争や企業間競争、アジア進出など時代と共に企業の歩みと人間のドラマを40年間も渡って演じ続けています。

 恐らく、作家の弘兼さんは松下電機産業で三年間の勤務をしたから、数々の若者が憧れる大手電機メーカーを舞台にすることができました。マンガの中に「初芝」という日本を代表する大手電機企業を架空していますが、作者の経歴を知らない読む側からすれば、原型の松下電器より、どうも現実の大企業「東芝」を母体にしているのではないかと思います。

 1875年創立で、家電、電気事業、半導体、エネルギなど多岐にわたって、150年間発展してきた日本有数の基幹企業の一つです。嘗て大手重電三社(日立製作所、東芝、三菱電機)と呼ばれる一角になり、電球、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、炊飯器、電子レンジ、ノートブックパソコンなど、国産第一号の家電製品を次から次へと発売しきした。省エネ、自然に優しい白物家電分野において、今風で言うとSDGsの草分け的な存在でもありますが、2015年の粉飾決算が発覚され、経営不振に陥ていることは周知の通りだと思いますが、経営を立て直すため、主力事業の白物家電を中国大手メーカー(美的グループ)に売却し、医療機器事業をキャノンの手へ、半導体メモリー事業を米韓企業連合に2.3兆円で渡しました。

 今年に入り、経営の安定化を目的に、海外ファンドを排除したうえ、国内投資ファンドの日本産業パートナーズが提案した条件(非上場化)を受け入れ、全体の80%近くにのぼる株式の公開買い付けを合意しました。

 年内12月20日にあの名門、東芝の上場廃止が東京証券取引所から宣告されることになり、残念ながら「東芝」の凋落が決定的になる一日に間違いがありません。

 

 

株式会社中和 ラッキー プリント 社員一同

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